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●買収防衛策の小難しい議論は置いといて(笑)、本日のツボでは議論の方向感を。


●最近、法律に対して食傷気味でして(笑)、
色々とジャンルの異なる本を読み漁っているのですが、
その中で「う~ん、これ面白いなぁ!!」と思った本のひとつが、
山岸俊男先生の「日本の『安心』はなぜ消えたのか?」という本です。
 
 本日のツボでは、この本における議論を参照しつつ、
買収防衛策に関する議論の方向性を、いつもの如くザックリと述べてみたいと思います。


●この本を読んで、まず最初に強く魅かれたのは以下の点です。
 
 「日本人はとりあえず『他の人たちは私を裏切ったり、利用しようとするのではないか』と考えてしまう傾向にあります」(96頁)

 「『集団主義社会とは本来、信頼をあまり必要としない社会である』」(100頁)

 「人々の結びつきの強い集団主義社会では、メンバーがおたがいを監視し、何かあったときに制裁を加えるメカニズムがしっかりと社会の中に作られています。つまり、このメカニズムこそがメンバーたちに『安心』を保証しているのであって、個々のメンバーは他の仲間たちを『信頼』しているわけではないということなのです」(104頁)

 「私たち日本人は『和の心』を持ち、他人と協調する精神を持っていると言われてきたわけですが、そうした協調的な行動は誰に対しても行われるものではなくて、あくまでも相手が『身内』であるときに限られていたというわけです」(110頁)

 「日本人は、相手が自分の身内であれば、それだけで相手を無条件に信用していいと考えるのですが、そうでない『よそ者』に対しては最初から『泥棒ではないか』と警戒感を抱いてしまいます」(111頁)


●以上の引用部分を読むと、
まさに昨今問題となっている、敵対的買収に対する日本企業の対応について、
多くのヒントを与えてくれているように読めませんかね?

 特に、ここでの「集団主義社会」という言葉を「閉鎖的株式市場」という言葉に、
また「よそ者」という言葉を「外国投資家」という言葉に、
それぞれ読み変えつつ再読していただくと、
私の意図するところが、ご理解いただけるのではないかと思います。


●つまり、従前における日本の企業社会では、
外資規制や株式の持ち合いなどによって閉鎖された株式市場を前提として、
株主は、総会屋などの特殊な株主を除き、基本的には企業の「身内」だったわけです。

 ですから、企業としては、そのような「身内」である株主について、
無条件に安心感を抱き、その行動を信用することができたんです。

 このような状況の下では、
当該株主が信頼に値する奴かどうか、
いちいち判断する必要すらないわけですね。
 これは、ある意味、効率的でもあるわけですね。

 ただ、その反動というのも容易に無視できないんです。
 というのも、当該株主が信頼に値する奴かどうか、逐一判断を行った経験がないために、
そのような判断を行う能力が磨かれることもないわけですね。
 
 このような状況で、例えば「身内」でない「よそ者」の株主がひょっこり現れたとき、
その「よそ者」の株主が信頼に値する奴かどうか、
そのような判断を行う能力がないゆえに、
企業はパニックになってしまうんですね。

 そのため、「よそ者を見たら泥棒と思え」、と(笑)、
そういう極端な行動に走ってしまいがちになるのではないかな、と。


●さて、賢明な読者の方は既にお気づきかと思いますが(笑)、
現在における日本の企業社会では、
先に述べたような閉鎖された株式市場を前提とするわけにはいかないんです。

 言い換えれば、株主は基本的に企業の「身内」だよ、と、
そんな風に言える状況ではなくなってしまったわけですね。
 「身内」ではない「よそ者」の株主なんて、
「ひょっこり」どころか「いつでも」現れ得る、そんな状況なんです。

 もちろん、そうは言っても、例えば持株比率の小さい個人株主については、
いちいち目くじら立てるほどのことはないんですね。
 まぁ、例えて言えば、村と村を隔てる森の中から、
3~4歳の子供が迷子になって出てきたようなもんです。
 この場合には、余裕を以って介抱してあげることが可能でしょう。

 でも、その森の中から、けっこう体格の良い大の大人が出てきちゃったら、
言い換えると、資金力もあって持株比率が大きくなり得る株主が出てきちゃったら、
さてさて、どうなっちゃいますでしょうか?

 特に、その「よそ者」が信頼に値する奴かどうか、
そのような判断を行う能力が村人に未だ醸成されていない場合には、
そりゃぁ、もう、村中を挙げての大騒ぎとなっちゃいかねません。
 下手したら、いきなり火あぶりにしちゃうかも(笑)。

 そして、そのような「よそ者」が今後も現れる可能性が十分にある以上、
村長さんを中心として村人総会を開催し、以下の事項を決議しました、と。

 ・村の周りにお手製のバリケードを張り巡らすと共に、
  活きのいいドーベルマンを何匹か連れてきて番犬とする。
 ・近隣の村と共同して「よそ者」が現れたら一緒になって挟み討ちにする。

 もちろん、余り予算のない村の中には、
「猛犬注意」の張り紙だけで済ますところもあるでしょう(笑)。


●さてさて、このような対応が好ましいか?と言えば、
それぞれの価値観もあるんでしょうが、
個人的には、やはり余り好ましいとは思えません。
 
 というのも、そのような対応では、
従前の閉鎖された株式市場に回帰するのと余り変わらないように思えるからです。
 現に株式の持合いが復活してきてます。
 外資規制も規制強化の方向で動いてますしね。

 そもそも、何で従前の閉鎖された株式市場を開放する方向で動いてきたかというと、
いろいろ説明の仕方はあるかと思いますが、大きなところでは、
やはり山岸先生もご指摘されているとおり、
そのような閉鎖に伴う機会損失が大きすぎるからですよね。
 特に「断絶の時代」と比喩されるほど変化の激しい現況下においては、
そのような機会損失を無視し続けることは不可能に近いわけです。

 ですから、従前の閉鎖型株式市場に逆戻りするような対応をとることは、
個人的な信条としても、やはり反対となりますし、
そもそも冷静に現実を見据えれば不可能かつ不合理なことと判るのではないでしょうか。


●でも、そうはいっても、
「よそ者を見たら泥棒と思え」というような、ヒステリーにも似た対応を、
今のままでは直ちに鎮めることもできそうにありません。

 「じゃぁ、どうしたらいいのよ?」
 
 そんな問題意識を持ちつつ、再び山岸先生の本に戻ると、
以下の言葉が、私の心の琴線に強く触れてくるわけです。

 「どうやら今の日本人の多くは、他者を信じることができないために信頼性検知能力を磨くチャンスをつかむことができず、そのためにますます他者との信頼関係を結べないという悪循環に陥っているように思われます」(174頁)

 「信頼社会という『大海原』」、「そこには成功のチャンスがあると同時に、他人から裏切られて大きな痛手をこうむるリスクも存在します」(175頁)

 「そこでまず考えるべきは、お説教という形で人々の背中を無理矢理押すのではなく、人々が相手との信頼関係を安心して構築できるような環境を作ることにある、というのが筆者の考えです」(175頁)

 「信頼社会において人間が他人を信頼し、手を組もうと考えるのも、相手を信じても馬鹿を見ることがない、損をすることがないという前提がなくては始まりません。そしてその前提を維持する最大の力となるのは、やはり法制度なのではないかと筆者は考えます」(223頁)


●ここで注意しなければならないのは、
特に「法制度」という言葉の多義性でしょうか。
 
 山岸先生は、ここでいう「法制度」との関係で、
古代ローマ法における民法や裁判所の整備などを具体例として持ち出しておられますが、
必ずしも一義的に、その内容を明らかにしているわけではないようです。
 
 ただ、その文脈から勝手に推測してしまうと、
最近はやりのガイドラインなどを始めとするソフト・ローではなく、
国民への拘束力を伴ったハード・ロー、
もっと言うと直接的な行為規制を定める法律を念頭に置かれているように思えます。


●で、ですね、
結局、何が言いたいかというと、
あんまり巧く言えないのが歯がゆいんですが(笑)、
以下のような感じなんです。

 確かに、ソフト・ローとしてのガイドラインとか、
ハード・ローとしての情報開示義務とか、
そういう柔らかい規制の方がね、
国家権力に対する警戒ないしは流動的社会に対する柔軟な対応という意味からしても
上手く機能する場面もあるとは思うんです。

 でもね、最近は余り流行らない考え方なのかもしれませんが、
そのような柔らかい規制のベースとして、
やはりナショナル・ミニマム的な最低限のところについては、
社会内の暴力装置を独占する国家の権力を背景とした、
ハード・ローによる直接的な行為規制、
これが必要なんじゃないですか?、と。

 そのようなベースも何もない中では、
ドーベルマンが噛み付き過ぎて過剰防衛になったり、又は、
「猛犬注意」の張り紙だけで過少防衛にとどまったり、と、
そういう繰り返しが、いつまでも尽きないのではないかな、と。


●こういうことを言うと決まって言われるのが、

 「古めかしい大陸法的発想だね」と(笑)。

 まぁ、それはそれで感想として持っていただいて別にいいんですが(笑)、
そういう感想めいたものではなくて、一見すると説得的に見える反論としては、

 「買収防衛のような微妙な問題をハード・ローで定められるのか?」と。

 誤解してもらいたくないのは、私もですね、
別に買収防衛の問題を全てハード・ローで解決しろ、と、
そう言ってるわけではないということです。

 そうではなくて、
ナショナル・ミニマム的な最低限のところについてだけでも、
ハード・ローによる直接的な行為規制を定めておくことで、
少なくとも昨今見られるようなヒステリーにも似た対応は鎮められるんでは?、と。
 現実の買収防衛の場面において、
冷静な議論と対応が行われる環境が整えられるんじゃないですか?、と。

 要はハード・ローとソフト・ローの役割分担の問題だと思うんですよね。
 で、今は、各種業界の色々な思惑もあってか(笑)、
ソフト・ローに重点が傾き過ぎているように思うんです。


●でも、こういうことを言うと更に決まって言われるのが、

 「お前の言う『ナショナル・ミニマム的な最低限のところ』って何よ?」と。

 いや、まぁ、そこが完全に分かってりゃ苦労しませんよ(笑)。

 現時点で私が言えるのは、
これまで見てきた議論の全体像からして、
そこに従前よりも強くスポットライトを当てて、
真剣に議論していかなきゃいけないんじゃないですか?ということなんです。

 後、最初から完璧を狙うのではなく、
とにもかくにもヒステリーにも似た対応を少しでも鎮めるという趣旨からすれば、
ミニマム中のミニマムと言える部分からだけでも始めてみるのもよいのではないですか?

 更に一つ言えることがあるとすれば、
従前、「裁判所は万能ではない?」というM&Aのツボでも見たように、
裁判所の審査能力には、どうしても限界があるということです。
 そこで述べたブルドック事件に関しても、
裁判所という国家の一機関が、現行法の枠組みで判断する以上は、
最高裁判決の内容にならざるを得ないんだと思うんです。
 ですから、一定の行為規制を設ける中で、
立証責任の転換などといった法技術を使うことにより、
裁判所がより判断しやすいような枠組みを作っていく必要があるんだと思います。


●本日のツボは以上でおしまい。
 ちなみに、本日述べたようなハード・ローが制定された日には、
一つだけ容易には見逃し得ない重大な問題が生じちゃうかもしれません。
 それは、今よりも弁護士が買収防衛で儲からなくなるという問題(爆)。

 3末を越えた後で、かなり酷く体調を壊してしまいまして、
ブログの更新が、結構な期間、ズッと途絶えておりました。
 もしも万が一、更新をお待ちであった方がおられましたら、大変申し訳ありませんでした。
 随分と荒廃してしまいましたが、、、
また一からやり直すつもりで、頑張っていきたいと思います。
 どうぞ、よろしくお願いいたします。


(2008年5月20日記)
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