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●最近、
海外の某有名大学教授の影響によるのか、
「正義」という言葉が妙に流行ってるような気がしますねぇ。

 非常に重いテーマであり、
私のように「吹けば飛ぶ」軽い存在の人間が安易に口に出来るものではありませんが、
山口先生運営の「ビジネス法務の部屋」における上記エントリーを読んで、
何故だか無性に雑感を書きたくなってしまいました。

 ただ、
いかんせん、テーマがテーマだけに、
ロジカルに書こうとすると失敗するし(笑)傲慢に見えるだけだし、ということで、
思い浮かんだことだけを徒然なるままに書きつけるスタイルにしておこうかな、と。
 要は、まぁ、いつものスタイルということですが(笑)。

 ということで、本日のツボでは、
特に「正義」という言葉について思い浮かぶことを徒然なるままに。


●さてまず、
この「正義」という言葉を聞いて、
いつも頭に思い浮かぶことがあるのですねぇ。

 それは以下の言葉。

 「裸の利益考量」

 特に私が使用者側で労働事件を扱ってるからでしょうか、
この言葉に対する警戒感は他の弁護士さんよりも特に強いような。

 特に労働事件ってのは、
法の原理原則を度外視して「裸」の状態で事案を眺めた時、
どうしても労働者側に秤が傾きがちなのですよね。
 
 「やっぱ力の弱い労働者を助けてあげたいなぁ」、と。

 ただ、
使用者側にもやはり事情はあるわけで、
特にその予測可能性など保護すべき正当な利益というのがある。

 なので、
使用者側の弁護士がまずやるべきことってのは、
裁判官を「裸の利益考量」とは別の法的視点に真正面から向き合わせること。
 つまり、
法の原理原則に照らして考えると、
本件ではこのように秤がかけられるべきだ、と、
その原理原則というのは正当な使用者の利益を守るものであり、
「裸の利益考量」の結果を問わず安易に無視して良いものではない、と。
 
 法の原理原則というのは、
長い歴史の時を経て研ぎ澄まされた結晶のようなものなのです。
 その結晶を通して見ることで、
見逃してはいけない法的視点を網羅することができる。
 なのに、
このような結晶を度外視して「裸の利益考量」だけで済まそうとすると、
どうしても安易な分かりやすい結論に飛びつきがちになるのですよね。

 私も実際に経験しましたが、
最高裁で逆転勝訴が出やすい場面の一つは、
高裁が「裸の利益考量」だけで法の原理原則を無視して結論を出しちゃった時なのですね。


●で、
何が言いたいかというと、
「正義」というものを直に理由付けとして持ちだすとなると、
結局は、この「裸の利益考量」だけで終わっちゃうんじゃないかなぁ、と。

 しかも、
「正義」という言葉のアクの強さが、
より一層の危険を生み出すような。

 というのも、
「正義」という言葉は、
どんな結論にも直に結びつき得るから。
 
 「正義」というのは、
極めて相対的なものであり、
時代、人、立場などによって、如何様にも変容可能なもの。
 なので、
「正義」というものを直に持ちだして理由付けしようとすると、
その時代のその人のその立場などにおいて自己完結した主張に終わっちゃう可能性がある。
 要は、
「私は思う」という結論だけで終わってしまい、
その拠って立つトコロが必ずしも明らかとならず、
他者との議論が成立しないということにもなりかねない。

 もちろん、
「教室」の中での慎重な仕掛けの下であれば、
「正義」というものを直に扱っても議論が成立する可能性がありますが、
何もかもが駆け足の実務においてはホントに劇薬になりかねないなぁ、と。

 特にその結論が一見してキャッチーなものであれば、
もはや反論を許さない雰囲気になりがちではないかな、と、
杞憂かもしれませんが、個人的にはそう危惧します。


●なので、
今どき流行らない考えなのかもしれませんが、
安易に「正義」という言葉を持ち出さずに、
やはり法の原理原則をまずは押さえた上で、
その例外を何故認める必要があるのか、
また認めても特に弊害はないのか、
認めるとしてどういう法的理屈が考えられるか、
そういう法的思考のプロセスを踏むことが大切かと。

 もちろん、
そのようなプロセスを踏むにしても、
スピードは凄く大事ですよね。
 特に緊急性の高い場合には、
そのプロセスが多少「生煮え」であっても、
走り出さないといけないこともあるでしょう。

 ただ、
法律家としては、
あくまでもこのプロセスを愚直に貫くことが大事かな、と。


●ちなみに、
法的な理屈付けとしては、
山口先生のエントリーに挙げられているモノのほか、
シンプルなものとしては法文等の限定解釈というものもありますかね。

 例えば、
法文を形式的に読むだけだと適用がありそうだけど、
その法文の趣旨に戻って考えた場合には、
どうも本件の場合に適用することは余り想定されてないし、
形式的に本件の場合にも適用すると却ってオカシくなる、と、
そういう場合には文言によらず限定的に解釈して本件の場合を適用場面から外す、と。

 そういう限定解釈ってのは、
今回の震災でも活用の余地は相当あるような。
 
 ちなみに、
このような限定解釈その他の法的理屈の活用結果については、
敢えて「超法規的措置」というレッテルを貼る必要はないような気もしますね。
 特に行政関係については、
「超法規的措置」という言葉を持ち出すのは慎重であるべきかな、と。


●本日のツボは、ここまで。

 いずれにせよ、
「規制=悪vs超法規的措置=善」というような、
安易な二項対立的発想には染まらないようにしたいなぁ、と。

 後、
「震災の特殊事情」と言えば、
津波で流された被災地を勤務地として限定する特約がある場合であっても、
整理解雇の場合の解雇回避努力としては、
そのような特約の存在にかかわらず、
使用者側で当該被災地以外への配転可能性を探ることが、
平常時よりも強く求められるのかもなぁ、と。
 使用者・労働者双方ともに特約時点で全く想定外の事態であったことなどを理由として、
法的理屈としては権利濫用法理の中に読み込んでいくのでしょうかね。
 この点は、私も、
もうちょっと法的思考プロセスを踏んで、詰めて考えていこうかなぁ、と。


(2011年4月26日記)
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